Ⅰ 第1ステージ

貸金業規制法が施行された昭和50年代後半から、司法書士に簡裁訴訟代理権を付与した平成15年改正司法書士法施行までが、司法書士が破産に関わった第1ステージといえる。第1ステージは、サラ金地獄に陥った多重債務者を救済するという使命感に燃えた少数の司法書士が手探りの状態で破産手続きを利用したことで始まった。そして、その輪が徐々に広がるとともに破産手続きを契機として司法書士が種々の裁判事件に取り組み始めたことが評価され、司法書士法改正にこぎ着けた時代である。

1 幕開け

 筆者が司法書士登録したのは平成2年のことであるが、当時、司法書士にとってサラ金問題や破産手続というものは身近なものではなく、全国でもほんの一握りの司法書士が破産申立の書類作成などを通じて細々と多重債務者の救済活動を行っていたにすぎない。たとえば、平成2年4月に実施されたクレジット・サラ金110番では、110番に参加した司法書士の団体はなく、わずかに埼玉と鳥取の司法書士が個人として実施したにすぎない。

当時、司法書士の裁判事務の取扱事件数は、年間を通じて会員一人当たり平均1~2件という時代であり、しかも、その半数程度は家庭裁判所における特別代理人選任事件のように登記事件に付随して申し立てる事件であったと想像される。また、その他の裁判事件の主なものとして、金融機関・金融業者を依頼者とする不動産の担保権実行や貸金請求訴訟等の書類作成が多かったものと想像される。司法書士会の裁判事務研修も、家庭裁判所への申立書類の作成や、支払命令申立書の作成方法に関するものなどが主流であったと思われる。

言ってみれば、当時、司法書士の裁判事務は債権者の立場における裁判事務で、なおかつ定型的なもの又は争訟性が低いものであったということもできよう。したがって、そのような状況のもとで、債務者である依頼者の立場に助力して破産申立書類を作成していたほんの一部の司法書士は、司法書士として本流足り得る筈がなかったのである。

しかし、司法書士界にクレサラ問題の風が吹き込むことになる。それは、平成3年11月に開催された全青司静岡全国研修会ではなかったかと筆者は考えている。当該研修会では大阪青年会が担当した「クレジット・サラ金問題と司法書士」の分科会において、クレサラ問題における基礎的なQ&Aが示されたのである。

この頃から、少しずつではあるが、若手司法書士のグループがクレジット・サラ金110番を開催するようになった。しかし、当時は未だ司法書士としての事件解決の方法論が未成熟であったため、110番に寄せられた相談を司法書士が事件処理することは多くはなかった。

ところで、当時、なぜ司法書士の間にクレサラ問題に対する機運が高まったかであるが、これは、日本司法書士会連合会(以下、「日司連」という。)が平成元年から開始した中央新人研修の影響が大きいと筆者は考えている。中央新人研修により、それまでの司法書士の裁判事務の中核をなす定型的な事件処理から、闘う司法書士へと、少しずつではあるが脱皮が図られたのではないかと考えられるのである。したがって、闘う法律家の素養を身につけた中央新人研修の修了者の目の前に、闘う場としてクレサラ問題が浮かび上がったのではないだろうか。

しかし、問題は、司法書士にはクレサラ問題に対する実績がほとんどなく、ノウハウもなかったのに加え、債権者等も司法書士を専門家として認知していなかったということである。弱者は救済されなければならないという正義感だけを拠り所として、多重債務問題に対峙する個々の司法書士が、債権者や一部の弁護士から非弁活動の誹りを受けたり、同職の司法書士から「変わり者」扱いされたりして、いわば四面楚歌のような状況の中で救済活動を始めたのである。

また、大半が経済的に報酬を得ることができない事件であり、中には司法書士が立替払いした破産予納金すら回収できないこともあったのである。通常であれば、こうしたプロボノ的活動が長続きすることは少ないが、混沌とした状況に対して精神的・実務的な指針が「借金整理の対処法」(芝豊、古橋清二共著(自費出版)。平成5年9月に静岡県清水市で開催された全国クレジット・サラ金被害者交流集会の「弁護士以外の者による被害者救済方法」の分科会に合わせて出版された)によって示され、救済活動が継続かつ加速していくことになった。

「借金整理の対処法」のはしがきは、全国の司法書士に向け、次のようなメッセージで締められている。「今後益々増えるかもしれない多重債務者に、一人でも多くの方が真摯に対応し、多重債務者が種々の困難から解放され、再び生きる意欲をわきたたせる姿を見ることの喜びを味わって欲しい」と。既に、司法書士がクレサラ問題に取り組む意義のひとつとして、依頼者の生活再建の視点が明確に示されていたのである。

「借金整理の対処法」により、司法書士の実務指針として示されたもののひとつとして、債権者に対し、裁判手続をとった旨の通知をすることによる取立禁止効の活用があった。

当時、受任通知に取立禁止効が認められていたのは弁護士のみであり、クレサラ問題に関する実績がなく交渉権限もない司法書士には認められていなかったのである。そこで、裁判手続をとった旨の通知に取立禁止効を認めた通達(貸金業者については大蔵省通達(昭和58年9月30日蔵銀第2602号)、割賦販売業者については通産省通達(昭和59年11月26日産局第834号))を活用して、取立を止めるために一日でも早く何らかの裁判手続に係属させるという手法が「借金整理の対処法」により提唱され、主流となっていったのである。

しかし、これらの実務は司法書士にとって過酷を強いるものであった。すなわち、多重債務者は生活再建のために速やかに救済しなければならず、その方法論としては一刻も早く何らかの裁判手続に係属させ、裁判手続をとった旨の通知を発送して取立禁止の効果を得ること、というのである。したがって、報酬などは後回しで書類作成業務を遂行しなければならず、書類作成業務に法律扶助を利用することもできなかった。また、当時は破産・免責手続中の給料債権差押等の個別執行は適法なものとして多数行われていたため、それらの訴訟等について、全て書類作成を通じた本人訴訟支援という方法で対応しなければならなかったのである。したがって、一度クレサラ問題に足を踏み入れると、それまでとは比較にならない量の裁判事件を極めて低廉な報酬又は無報酬で扱うことにならざるを得なかったのである。それでも多重債務者の救済活動が司法書士の間に漸次広がっていったのは、「多重債務者が種々の困難から解放され、再び生きる意欲をわきたたせる姿を見ることの喜び」を味わうことに法律家冥利を感じたからであろう。

 

「司法書士のための破産の実務と論点」(古橋清二著 2014年4月民事法研究会発行)より

古橋 清二

昭和33年10月生  てんびん座  血液型 A 浜松西部中、浜松西高、中央大学出身 昭和56年~平成2年 浜松市内の電子機器メーカー(東証一部上場)で株主総会実務、契約実務に携わる 平成2年 古橋清二司法書士事務所開設 平成17年 司法書士法人中央合同事務所設立